Office Carlino個人の力を組織力へ。ダイバーシティ推進・ミドル活性化は朝生容子へ お問い合わせ 子どものいない人生ポータル

 フィンランド タンペレ・ムーミン美術館紀行|『遊びの夕べ』が教えてくれた、トーベ・ヤンソンの温かな時間

2026.08.20

タンペレのムーミン美術館

タンペレを訪れたもう一つの大きな目的は、世界で唯一の「ムーミン美術館」に行くことでした。

札幌在住時に訪れた札幌芸術の森でのムーミン展や、東京でのトーベ・ヤンソン展を通じて、私はムーミンの物語だけでなく、原作者トーベ・ヤンソンという人物そのものに強く惹かれるようになっていました。

今回の旅にあわせて原作シリーズを購入し、予習のつもりで読み始めたのですが、旅立ちまでに読み終えられたのは(旧シリーズで1巻目とされていた)『ムーミン谷の彗星』のみ💦

子どもの頃に見ていたアニメのムーミンは、どこか平和でのんびりとした世界観でした。しかし、大人になって展覧会や原作に触れると、決してそれだけではない深層に気付かされます。『ムーミン谷の彗星』はその象徴のような作品でした。

谷に迫りくる彗星の正体を突き止めるため、ムーミンとスニフが天文台へ旅立ち、道中でスナフキンやスノークのお嬢さんたちと出会っていく物語。作中では干上がった海など、気候変動や天変地異を思わせる過酷な現象が描かれ、登場人物たちは右往左往します。

実は、フィンランド自体は地震などの自然災害が非常に少ない国なのだそうです。では、なぜトーベはこうした破滅的なカタストロフィを描いたのか?その背景には、彼女が生きた過酷な「戦争の時代」がありました。

彼女が生まれた頃、フィンランドはロシアの支配下にありました。その後、ロシア革命を経て、トーベが3歳の時にロシアからの独立を宣言。その後、内戦が続きます。

第二次世界大戦中、彼女はスウェーデン語系の風刺雑誌『GARM(ガルム)』の表紙などで、ヒトラーやスターリンを鋭く批判する風刺画を果敢に描き続けました。これらの作品は東京で行われた展覧会で見ることができました。表現の自由を奪い、個人の尊厳を踏みにじる全体主義や戦争を、彼女は心から憎んでいましたことがよくわかります。(そして、この頃に、後のムーミントロールの原型となるキャラクターも登場したのです)

第1作『小さなトロールと大きな洪水』での家を失う難民の描写や、第2作『ムーミン谷の彗星』で空から破滅が降り注ぐ終末感には、空襲の恐怖や戦争による不条理が色濃く投影されていたと思われます。人間の力では到底抗えない暴力の前に人々は無力でありながら、それでも懸命に日常を守ろうと右往左往する――その姿は、現代の私たちが直面する自然災害や今も世界のどこかで行われている戦争下の生々しい心細さとも重なります。

もう一つ印象的なのは、作中に登場するキャラクターたちの強烈な個性です。いわゆる聞き分けの良い“いい子”はおらず、誰もが簡単に怒ったり、すねたり、衝突したりします。そしてそれは綺麗な解決には至らないことも多い。けれどムーミンの世界では、そうした風変わりさや欠点がお互いに排除されることなく、ごく自然に許容されています。

トーベはフィンランドでのスウェーデン語系というマイノリティであり、後に女性の生涯のパートナーとともに生きた人でもあります。自由を愛し、戦争の不条理とマイノリティとしての生きづらさを肌で知っていたからこそ、「どんなに風変わりで不完全な存在であっても、ありのままで認め合える世界であってほしい」という切実な願いを物語に託したのではないでしょうか。

そんな思いを胸に訪れたムーミン美術館でしたが、実は直前まで「主要な原画はこれまでの展覧会で見てきたけれど、現地ならではの発見はあるだろうか」と少しの不安もありました。

しかし、その懸念は良い意味で覆されました。

展示室で圧倒的な存在感を放っていたのは、パートナーであるトゥーリッキ・ピエティラを中心に、友人たちと制作された立体的なミニチュア作品群。中でも、トーベ自身が設計図を描き、仲間たちと少しずつ作り上げた高さ2メートルを超える「ムーミンハウス」は圧巻でした。

毎週土曜日に仲間が集まり、その時間を「遊びの夕べ」と呼んで制作に没頭していたそうです。

戦争の時代を生き抜き、マイノリティとしての孤独や、世界的なブームによる多忙とプレッシャーに悩まされたトーベ。そんな彼女が、心許せる友人たちと笑い合いながら手を動かしていた温かな時間があったのだと知り、胸の奥がじんわりと温かくなるような安堵感を覚えました。トーベの人間味に触れて、彼女のことを非常に身近に感じることができたひと時となりました。

美術館の中には世界中で発刊されたトーベに関する本の展示コーナーが。日本語の本ももちろん!

←記事一覧に戻る

MENU

CLOSE