映画「福田村事件」
2024.01.28
1月の三連休、東京方面に「里帰り」したときに、映画「福田村」を観ました。
東京に行った折は、いつもぎちぎちにスケジュールを詰めているのですが、今回は直前まで予定が流動的だったせいか、ぽこっと夜の時間があき、「映画でも見ようかなー」という気分になったのです。
そこで選んだのが、「福田村」。宿泊先からはちょっと遠いものの、実家のある柏駅近くの映画館で上映しているではないですか。札幌で見逃してしまっていたので、これはありがたい!
<映画「福田村」あらすじ(公式サイトより)>
大正デモクラシーの喧騒の裏で、マスコミは、政府の失政を隠すようにこぞって「…いずれは社会主義者か鮮人か、はたまた不逞の輩の仕業か」と世論を煽り、市民の不安と恐怖は徐々に高まっていた。そんな中、朝鮮で日本軍による虐殺事件を目撃した澤田智一(井浦新)は、妻の静子(田中麗奈)を連れ、智一が教師をしていた日本統治下の京城を離れ、故郷の福田村に帰ってきた。同じ頃、沼部新助(永山瑛太)率いる薬売りの行商団は、関東地方へ向かうため四国の讃岐を出発する。長閑な日々を打ち破るかのように、9月1日、空前絶後の揺れが関東地方を襲った。木々は倒れ、家は倒壊し、そして大火災が発生して無辜なる多くの人々が命を失った。そんな中でいつしか流言飛語が飛び交い、瞬く間にそれは関東近縁の町や村に伝わっていった。2日には東京府下に戒厳令が施行され、3日には神奈川に、4日には福田村がある千葉にも拡大され、多くの人々は大混乱に陥った。福田村にも避難民から「朝鮮人が集団で襲ってくる」「朝鮮人が略奪や放火をした」との情報がもたらされ、疑心暗鬼に陥り、人々は恐怖に浮足立つ。地元の新聞社は、情報の真偽を確かめるために躍起となるが、その実体は杳としてつかめないでいた。震災後の混乱に乗じて、亀戸署では、社会主義者への弾圧が、秘かに行われていた。そして9月6日、偶然と不安、恐怖が折り重なり、後に歴史に葬られることとなる大事件が起きる―。
「柏」の映画館で、今でも上映が続いているということの意味は、この事件がどこで起こったか、ということと深く関係しています。タイトルの「福田村」は、現在は野田市。しかし実際には、柏市田中村もその含まれていました。
実は私の実家は、旧田中村の近くにあります。昭和40年代に引っ越してきたので、事件当時の住人には縁も所縁ありません。ただ、住んだことののある地域で起こった事件として、この映画は見なければいけないと思っていました。
そうした意味で、柏の映画館「キネマ旬報シアター」で年明けまで上映を続けてきていたことに、映画館の「忘れてはいけない」と訴える矜持のようなものを感じました。
韓国人虐殺や被差別村差別がテーマではありますが、私が感じたのは、「外界」から来たものへの抵抗です。それは私が転勤族の子どもとして、引っ越した先で感じたものを思い出させてくれました。
小学校低学年に親が家を建てて移り住んだ家は、父の大阪への転勤でしばらく住むことがなく、戻ったのは中学に入った時でした。「革新府政」と言われるようなリベラルな学校から、当時でも「保守的」と言われる学則が厳しかった学校へ。
当時、私を担当した担任からは、後に「朝生さんは当時、怖かった」と言われました。私は若気の至りで、規則や習慣に対し「なぜ?それはおかしくないか?」とみんなの前で質問したからだそうです。
「うまくやっている」社会の規範に対し、異を唱える外界のものへの恐怖。それは自分が信じるものを壊す存在への恐怖といえます。そしてそれは、自分を守るための外部の者への攻撃と容易に転化します。感情から来ているので理屈は通用しない。
私のなかで過去の体験が思い出され、「ああ、あれはこういうメカニズムだったのか…」と妙に腑に落ちました。
このあたりの解説は、内田樹さんが書かれたものが非常に腑に落ちたのでご紹介します。
◆内田樹氏の評論(Business Insider)
もうひとつ、非常に印象的だったことがあります。
被差別部落出身者のリーダーが、必死に「この人たちは朝鮮人ではない、日本人だ」と擁護する人に向かって、「じゃあ朝鮮人なら殺してもよいのか?」と問いかける場面です。
私たちは、いつの間にか「その人たちは朝鮮人じゃないよ、」という気持ちになってしました。それは裏返せば「朝鮮人は殺してもよい」ということにつながります。朝鮮人である登場人物が殺されたそのシーンに涙していたにもかかわらず。
「〇〇だからしょうがない」ちう気持ちが、差別を助長してしまう。
そのことに気づいて愕然としました。
偶然ですが、この映画をこのタイミングで見れたことは、何かのメッセージなのかもしれないと思っています。