「ZEN2.0」に参加してマインドフルネスを考える
2017.09.05
この週末、鎌倉で開催された「ZEN2.0」という国際会議に参加してきました。
※「ZEN2.0」詳細はこちら
知人が企画に関わっていたことから、割と早い時期に開催の情報は得ていたものの、週末の2日間を使ってしまうことに躊躇を覚えていました。
しかし、「これは思い切って自分のリトリートにすればよいのでは?」と勝手に解釈し、一泊することにしていざ鎌倉へ!
直前に急な仕事の予定がどどっと入り、参加を諦めることも考えたのですが…思い切って参加してよかった!
期待以上に濃密な2日間を過ごすことができました。
いろいろな気づきがあったのですが、特に私にとって有意義だったのは、「マインドフルネス」への批判を受け止め、自分なりのスタンスを決めることができたこと。
あまりに流行してしまった「マインドフルネス」。
本来の意味から離れ、商業的になってしまったという批判をよく聞きます。
代表的なものは、「便益を目的にするものではない」というもの。
マインドフルネスの肝となる瞑想は、本来、何かの便益を期待して行うものではないはず。
ところが、仕事の効率を高めることやメンタル面で落ち着きを取り戻すことなど、効果が喧伝されるにつれ、「具体的な便益」を期待して行う人が増えてしまいました。
そうした風潮に、もともと坐禅などを行っている方面から(私は「マインドフルネス原理主義」と呼んでいますが)、強い批判がされています。
私も同様の疑問を抱いたことがありました。
ただ、何かのきっかけでマインドフルネスが広がるのであれば、多少の齟齬があってもそれはいいのではないか?
そんな風に思えてきました。
体験していくうちに、何かを感じ取っていくこともありと思うからです。
もう一つの批判は、「マインドフルネス」の「マインド」は、利己的なものではないかというものです。
これは今回の国際会議でも議論の焦点になりました。
英語ネイティブではないので、そのあたりの感覚はよくわからないので、議論を通じて私なりに解釈したことを書きます。
「マインド」というと、日本語では「意識」となり、「共感」や「思いやり」といった、優しい感情は含まれないようです。
本来、人を幸せにするものであるはずの「マインドフルネス」に、そうした温かさを含まれないのは変だ…
そう考えて「コンパッション(同情・共感)」をセットで提唱したり、「マインドフルネス」を使わず、「ハートフルネス」と唱える方もいました。
そうした概念を補足する中で、私が一番ピンときたのは「リスペクトフルネス」でした。
「ZEN2.0」にも登壇された尺八奏者の工藤煉山さんが提唱されている言葉です。
「マインドフルネス」が目指す、温かなつながりのある世界観は、私にとっては茶道の「和敬清寂」や「一座建立」のイメージがあります。自分以外の人のことを思いやり敬意を表するということであり、あまりウェットな情は含まれないという意味で、「敬」がぴったりくるのです。
そういえば、鵬雲斎大宗匠が唱えていたのは「ピースフルネス」でしたね。
結局のところ、禅とつながりの深い茶道の概念に帰り、私の中ではものすごーく腑に落ちたのでした。